知らないよ。

不安に押し潰されながらもなんとか生きてます。

過去の話や日常話してます。詳しくは自己紹介に。最近ご飯作ったの載せてます。
みなさん情緒不安定な私となかよくしてくれありがとうございます。

過去

共依存。


これは一緒に暮らしているといっそまわりにも気づかれないどころか
自分自身さえも気づいていないはたまたあなたと私は二つで一つ
あなたがいなければ私は死ぬというくらい。
でもそれが共依存だときづかないうちは


私はその関係がふつうだと思っていたんです。


過去に戻りますと
母は毎日私を監視していました。
部屋もありましたが、ふと気配がし後ろを見るとじっと
私をドアの隙間からのぞきじっと見ているのです。
私はそれにおどろき
叫びます。なに!?と怯えた顔だったと思います。
その表情をすると母は決まって


なあに?と
言って
うふふ
と笑いながら


死んでるかと思って


といいはなちドアを閉めるのです。当時それに慣れてきたころには
酷い時は部屋に入り、私が絵をかいてるときなどマンガを読み集中しているのを見て体や肌を密着させてきます。それで私は、本が読めないからちょっとどいてもらっていいかな?と言うと
私よりもその本がいいのね・・・と
まるで私が悪いかのようなくらいな罪悪感をださせ。
母が苦しい苦しいと欝で酷い時は死にたいと家族や友達にメールをします。いつものことだしとどうせまた家族にメールで死にたいだのと送り電話が鳴り響く始末でそれに応答しなきゃならんのだろう←いつものことなので。)と思い、夜中だったので暗くして寝ていたら光がどこからかさしてきた途端ドアをギイギイと何度も開ける音がし何だろうと振り返ると母がぼーと私を見つめ、それに気づき私が怖がると
ニタニタ喜びさって行き、眠りにつくのです。
まあいわば心配しなかったから罰当たりだ!お前は!みたいな感じですね。
母はよくうつ病の私によくひどいことするわね・・・・と言います
罪悪感ばかりかけてきました。
その罰当たりがこの日はこれでした。ほかもいろいろな仕返し?罰当たりがありました。
そのエンドレスが毎日繰り返されました。


話が戻りますがそれと隣にリビングの引き戸(当時部屋は和洋室でいつもそこで母は寝ている)だったのです私が部屋で机に座る私が見えるちょうど後ろの引き戸のすぐ横に張り付いて寝るのです。

パソコンも当時好きで毎日やりこんでいましたがそうすると部屋からでてこないし見張らせるため
目の届くリビングに机を置きパソコンを置かされました。
これ以上もう母に見られたくはないので、今度は台所に通じる方のリビングのドアをすべて閉めました



母は
なんで
閉めるの!?


と叫び狂いました。ヒステリックに近いかな不安が移るようなしゃべり方なんです。母自体が不安なもので。その不安の取り除いてほしいが為わたしの近くに寄り添い肌を密着させ私を毎日のように監視していました。

いつもいつもまた見張られているのではないかと怖かった。
夜2時すぎ私が寝ているのか死んでいるのか毎日母は夜中起きるたび顔を2センチくらい近距離で目玉をこれでもかと見開き私を除き



ふるーつ!?いきてるの!?
と。言っていていました
毎日不安で寝れませんでした。



母はいつも
布団をほして、皿を洗ってなどと私をこき使います。
最初はやっていたのですが、めんどくさいといいたいときもある。学校で疲れてやりたくないときだって私だってある。でも母は決まって何か頼む際
私はうつだから布団も畳めないというのです。
だからずっと従ってはいました。うつ病といわれたからには同情のようなものでこちらも動かないというわけにはいきません。
ですが前者の通りめんどくさいと犯行した後
放置したら



母は
うつ病の私にこんなことをするのね。


とさっきまで寝て苦しそうにしていたくせ
ふつうに起き上がり布団を畳み始めていました。
悲しそうな顔を浮かべながら。


私は罪悪感をたくさんもらいまいました。



挙句の果てには男の人をつれこみ、私も話にまじわせ紹介し
男女のあまりよろしくない話(性的な話、どんな性行為をしたかだの。セクハラもされた)聞かされたり、
その母の連れて行く男も病をもっていてうつ病や、アルコール依存症などで
元気だった表情が急に別人のように変わる。
これは病気に人にしか共感できないことだとは思います。


ですが
ですが
子供の気持ちも考えてください。


子供のためよ。と言いながらまるっきり矛盾したことを言ってる人がいますよね。
私の母は私を愛しているといっていました。ですが
すべてを受け止めようとし、ダメだとわかり、見捨てるのです。
見捨てるような言葉や行動を放ち、
愛してると言葉で話しても体を抱きしめられても
私には重荷にしか思えない
母の愛が重い。


これはすべて母に話しましたですが
もう言葉は通じない
私はこんなによく育てたじゃないかと
いうのです。
周りには私のせいよというくせ。
私の前ではわざと私を怒らせるような言動をさせ
それを気遣う母を他人に見せ私は誰に話しても母の言葉をしんじる周りに対し
どれが正しいのかわからなくなり毎日発狂壁殴り言えないこともたくさんしました。
そして母にいろいろな精神病人扱いをさせられ


母にもう扱えないと
精神病院に入れられ
主治医に施設を進められ
母はそれを聞き、主治医の前では悲しい態度をしましたが
後々私のせいであなたは施設に行く羽目になったのね。施設では泣き叫んでもいないのは
私のせいってことなのねと
怒り狂っていました


児童相談所に行き
ここでもまあいざこざたくさんありましたが省略
施設にやっといけました。



病気を私の病気を理解してほしいお父さんがほしいと母は言っていました。
だから男の人に頼りたいと。
でも最初はお父さんがあなたがほしいといったから探してるのよと。
私が言いたいのは、正直に生きて欲しかった。
私を使い母は自分を悲劇のヒロインに仕立て上げていました。
私に体をふれて抱きしめてもなにも感じなかった。

おかあさんはそんな自分にも気づいてないし、気づきたくもないんです。

まわりからは私の母はかわいそうだねとそんなの常識だよそんなの当たり前だあんなに思ってくれる母親はいないと
そういう方のほうが大範います


今は、いろんな店舗で墓守娘など母がしんどい。などの四コマ漫画出版されているようですが。


私はこの17年間ともに母と暮らした17年間
ずっと見て世話をしてきました。

一緒にいたのに、私でさえも母の本性に気づこうとはしたくなかった。
いや気づいたら自分がひとりになるからと、気づこうとしなかった。
疑問を隠していた。
大丈夫だよ大丈夫だよ大丈夫だよと
カウンセラーのように優しく母に接してきました。
ですがそれも限界。母に毎日気を使う毎日に私は暴言も吐いたしもっとひどいことをしました。
私は自分のために何かをしようと生きたことはなかった。
いつのまにか母の面倒をみるのに必死で自分のだめに生きる時間、生きる自分を作る時間が無くなっていた。そんなまま20才




これはまだ一部。家族の中の母との関係の一部。ほかの家族はいつか・・たぶん。

母は自分のことしか考えていないのだから。
それに気づくのも遅すぎたのかもしれない。


同じ方が時折います。
まわりに気づかれないこの苦しさ
どこに持っていけばいいんだろうと
気づいた瞬間発狂どころではない
異常じゃない怒りや悲しさ苦しさがめぐりますよね
もう立つのも苦しい。
理解してくれた方がもしいたなら、幸いです。


汚い文章で申し訳ございませんでした。


失礼しました

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